(観測変数Aが構成概念Bを)「測定する」とはもういわない
他人の使用がどうであるかはとりあえず置いておいて,私は,「観測変数Aが構成概念Bを測定する」("A measures B")やそれに類する表現("what A measures is B")を二度と使わないと田舎のボケたおばあちゃんに誓った。昔,あまりよく考えずに使ってしまっていたことがあったけど,他所の分野はどうであれ,外国語教育研究に関する限り,これが大変に曖昧な表現であり,そして効率的な学術コミュニケーションを著しく妨げるので,いっそのことまったく使わないことにした。過去の自分の不勉強を悔いてもいる。
なので,
- 読解テストAは読解力を測定する
- 文法性判断課題は文法知識を測定する
- 不安尺度は不安を測定する
などとはもういわない。あまりにも曖昧な表現だ。
潜在変数モデルの測定方程式
かつて,私がこういう表現を使ったときは,もっぱら,自分では,ある潜在変数モデル上における測定方程式のことを示しているつもりであった。たとえば,ひとつの潜在変数と3つの観測変数についての一因子モデルを念頭に置くと,観測変数x1, x2, x3が構成概念(または潜在変数)y1を測定するとは,「観測変数x1, x2, x3は潜在変数y1を項にもつ関数である」といった意味のつもりだった。しかしよくよく外国語教育研究を見てみると,この意味の他にさまざまな解釈が与えられていることがわかった。これでは紛らわしいので,潜在変数モデルの測定方程式を示す場合は,ちゃんと数式やモデル式を書くか,
- モデル上において,観測変数xを,潜在変数yを項にもつ関数としてみなす
- モデル上において,観測変数xは,潜在変数yから回帰されていると仮定する
という。厳密にいえばすべてのモデルは虚構(fiction)なので。
操作的定義
外国語教育研究における「観測変数Aが構成概念Bを測定する」は,潜在変数モデルを一切含意しない,単純に操作的定義を示しているという例もある。たとえば,クラクションの長さは運転者の怒りを示している,といったことだ。この意味で述べるときは,そのまま,
- 観測XをYの操作的定義とする
か,もっと自分好みなのは,あくまでも目的に応じた人間の行為であることを強調して,
- 本研究は,測定された観測XをYの操作的定義としてみなす
- 本研究は,測定された観測XをYに対応付ける
という。
未検証であるところの測定対象・測定ドメインの抽象的な参照
外国語教育研究では,この例がもっとも多い。読解テストは読解力を測定する,といったように,測定の対象とする構成概念と観測への対応を参照する場合に使うことだ。ポイントは,潜在変数モデルや操作的定義とは関係なく使われるということだ。妥当性についての検証が不明な,または未検証な尺度やテストなどが主張する測定対象を示すといった場合だ。こういうときは,
- 観測Xの測定対象は構成概念Yであると主張されている
- 観測Xの測定対象は構成概念Yであるとみなされている
- その測定対象が構成概念Yであるとされる観測X
などという。主張されている,みなされている点が事実であれば少なくとも嘘にはならない。その面で誠実な表現だ。受け身形を使うときは,その主体を引用するとよいかもしれない。
- 観測Xの測定対象は構成概念Yであると主張されている(e.g., Jones, 2014, 2015)
のように。
観測変数x1と高い相関を示す別の観測変数x2があり,ある構成概念yの操作的定義とされた観測変数がそのx2であったときのx1とyの関係
なんだかややこしい。こういう書き方をするとブログの閲覧数は減る。しかし,こういう場合だ。文法テストがあるとする。この文法テストは,構成概念であるところの文法知識に対して,操作主義的に対応付けられている。そこで,この文法テストと相関(r = .80)を示した新テストがあるとする。不思議なことに,この新テストは文法知識を測るとされる。別に相関に基づく妥当性を全否定するわけじゃないけど,これと上記のものは異なることばで表されるべきだと思う。いうとしたら,
- 観測変数x1と構成概念yの操作的定義であるとみなされた観測変数x2には相関がある
「測定する」自体は?
肝心の測定する,測る自体は,私は観測を得るという意味でしか使わないことにした。それも気がひけるので,どちらかというと観測を得る,observeを使う。手続きや変数の単位がそれほど明確でない場合も使えるし、観測するは測定も含む。