草薙の研究ログ

英語の先生をやってます。

「客観的」とはもういわない

客観的ということばのあいまいさ

これまた不勉強故で「客観的」ということばを使ってしまっていたのだけど(幸い自分の論文を探したらあまり出てくることがなかったが),少なくとも外国語教育研究では,このことばは非常にあいまいであり効率的なコミュニケーションを著しく妨げるので私は個人的にもう使わないことにした。このことばは以下のように文脈に依存して使い分けられている。もはや手法としてsoundだとか,そういった意味でしかない。それに否定をともなってよく使用される語だ。客観的でない,など。

観察できるひとの数(私的事象と公的事象)

私的事象とはそれを観察するひとがひとりである事象だ。公的事象はふたり以上だ。客観的というとき,公的事象を示す場合が多い。主に(私的事象である)内省は客観的でない,などといわれる。少なくとも私の研究では,私的事象も公的事象も関心の中にあるため,これらを区別するためには,もっとも一般的で明確な私的事象と公的事象という用語のみを使うことにした。スキナーがいうように,私も「境界線としての肌はそれほど重要だとは思わない」

支持するひとの数

ときに,ある理論や仮説,または方法論や手続きを支持する人が相対的に多い場合に,客観的だという方がいる。「先行研究がたくさんある客観的な方法です」という状況だ。私は,単純に支持するひとが相対的に多い,ということにした。

データの尺度水準

カテゴリカルデータよりも順序データが,順序データよりも連続データが客観的だという方がいる。これは非常に馬鹿げている自然数よりも整数が客観的だとか,整数よりも実数が客観的だとか,それらが馬鹿げていると思うのとなにも変わらない。

信頼性係数等の高さ

クロンバックのα係数が高ければ客観的だとか,低ければ客観的な測定ができていないという論旨を聞くことがある。または評定の一致度なども。これも信頼性係数が高い値を示した,一致係数が高い値を示したということにした。

量的研究と質的研究

量的研究は客観的であって,質的研究は客観的でない,というようなトートロジカルにそれぞれの研究法に添えられる用語としてのためだけに客観的とはいわないことにした。ただのトートロジーであってそれ以上の意味がない場合が多い。

研究者の自由度

研究者が分析やデータを処理する過程において,研究者の避けがたい判断が多ければ,客観的でない,または判断がなければ客観的である,というようないい方はしないことにした。単純に研究者の自由度を問題にしたらよい。たとえば,因子分析モデルは,因子数や回転方法や推定方法などを決めなければならないから客観的でない,みたいな用法だ。

属人性一般

これ以外にも,もはや,客観的とは,属人性,つまりひとに属する要素がない程度といった意味でどんなときにも使われている。普通に属人性ということにした。

(観測変数Aが構成概念Bを)「測定する」とはもういわない

他人の使用がどうであるかはとりあえず置いておいて,私は,「観測変数Aが構成概念Bを測定する」("A measures B")やそれに類する表現("what A measures is B")を二度と使わないと田舎のボケたおばあちゃんに誓った。昔,あまりよく考えずに使ってしまっていたことがあったけど,他所の分野はどうであれ,外国語教育研究に関する限り,これが大変に曖昧な表現であり,そして効率的な学術コミュニケーションを著しく妨げるので,いっそのことまったく使わないことにした。過去の自分の不勉強を悔いてもいる。

なので,

  • 読解テストAは読解力を測定する
  • 文法性判断課題は文法知識を測定する
  • 不安尺度は不安を測定する

などとはもういわない。あまりにも曖昧な表現だ。

潜在変数モデルの測定方程式

かつて,私がこういう表現を使ったときは,もっぱら,自分では,ある潜在変数モデル上における測定方程式のことを示しているつもりであった。たとえば,ひとつの潜在変数と3つの観測変数についての一因子モデルを念頭に置くと,観測変数x1, x2, x3が構成概念(または潜在変数)y1を測定するとは,「観測変数x1, x2, x3は潜在変数y1を項にもつ関数である」といった意味のつもりだった。しかしよくよく外国語教育研究を見てみると,この意味の他にさまざまな解釈が与えられていることがわかった。これでは紛らわしいので,潜在変数モデルの測定方程式を示す場合は,ちゃんと数式やモデル式を書くか,

  • モデル上において,観測変数xを,潜在変数yを項にもつ関数としてみなす
  • モデル上において,観測変数xは,潜在変数yから回帰されていると仮定する

という。厳密にいえばすべてのモデルは虚構(fiction)なので。

操作的定義

外国語教育研究における「観測変数Aが構成概念Bを測定する」は,潜在変数モデルを一切含意しない,単純に操作的定義を示しているという例もある。たとえば,クラクションの長さは運転者の怒りを示している,といったことだ。この意味で述べるときは,そのまま,

  • 観測XをYの操作的定義とする

か,もっと自分好みなのは,あくまでも目的に応じた人間の行為であることを強調して,

  • 本研究は,測定された観測XをYの操作的定義としてみなす
  • 本研究は,測定された観測XをYに対応付ける

という。

未検証であるところの測定対象・測定ドメインの抽象的な参照

外国語教育研究では,この例がもっとも多い。読解テストは読解力を測定する,といったように,測定の対象とする構成概念と観測への対応を参照する場合に使うことだ。ポイントは,潜在変数モデルや操作的定義とは関係なく使われるということだ。妥当性についての検証が不明な,または未検証な尺度やテストなどが主張する測定対象を示すといった場合だ。こういうときは,

  • 観測Xの測定対象は構成概念Yであると主張されている
  • 観測Xの測定対象は構成概念Yであるとみなされている
  • その測定対象が構成概念Yであるとされる観測X

などという。主張されている,みなされている点が事実であれば少なくとも嘘にはならない。その面で誠実な表現だ。受け身形を使うときは,その主体を引用するとよいかもしれない。

  • 観測Xの測定対象は構成概念Yであると主張されている(e.g., Jones, 2014, 2015)

のように。

観測変数x1と高い相関を示す別の観測変数x2があり,ある構成概念yの操作的定義とされた観測変数がそのx2であったときのx1とyの関係

なんだかややこしい。こういう書き方をするとブログの閲覧数は減る。しかし,こういう場合だ。文法テストがあるとする。この文法テストは,構成概念であるところの文法知識に対して,操作主義的に対応付けられている。そこで,この文法テストと相関(r = .80)を示した新テストがあるとする。不思議なことに,この新テストは文法知識を測るとされる。別に相関に基づく妥当性を全否定するわけじゃないけど,これと上記のものは異なることばで表されるべきだと思う。いうとしたら,

  • 観測変数x1と構成概念yの操作的定義であるとみなされた観測変数x2には相関がある

「測定する」自体は?

肝心の測定する,測る自体は,私は観測を得るという意味でしか使わないことにした。それも気がひけるので,どちらかというと観測を得る,observeを使う。手続きや変数の単位がそれほど明確でない場合も使えるし、観測するは測定も含む。

 

頭の中に追い込むときっとそれはどこかへ逃げていく

よくある話

  • 「私の学生たちには,話すことに対する不安があるため,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない」
  • 「私の学生たちは,動機づけの程度が低いため,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない」
  • 「私の学生たちは,やる気がないため,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない」

などといった旨の言明は,職員室や飲み会における英語教師同士の会話によく出てくるだけでなく,英語教育に関する学会にでもいけば,一日に3個は用例を見いだせるような,そんなありきたりのものだ。

こういった言明の理屈

このような言い方自体が悪いのだ,という含意はまったくないが,これらには考えるべき点がいくつも含まれている,というのも事実だ。

1つ目は,if then形式の命題(if-then proposition)与件として与えられているように読める点だ。以下のような命題が前提にされている言明に読める。

  • (if)もしも話すことに不安がある場合,(then)英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない
  • (if)もしも動機づけの程度が低い場合,(then)英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない
  • (if)もしもやる気がない場合,(then)英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない

当たり前のように,つまり与件のようにいわれているが,これらの命題自体は一向に未検証なままの場合もあるし,合理的に与件とされて検証する必要がないとされるか,または心理学といった他分野の先行研究に基礎付けされているのだぞ!と主張されることもある。まあ,場合によるけど,正直いって結構あやしいもんだ。主観を表しているにすぎないときもある。

とにかく,このif-then propositionに対して,「私の学生は不安がある」「私の学生は動機づけの程度が低い」「私の学生はやる気がない」といった命題を付け足して,演繹的に,「私の学生は英語を話さない」を導いているというわけだ。

私の学生は不安がある → 不安があると一般的に人は話さない → だから私の学生は話さない。なるほどな,と。

…ん,そうなのか?演繹なのか?

私たち教師は,一向に英語を話さない様子を一種の行動として観察している。ある程度手順を工夫して定めれば,英語を話さない様子も記録することができるだろう。

一方,不安がある,動機づけの程度が低い,やる気がないはどうだろう?不安,動機づけ,やる気は一般に心理的特性だと考えられていて,直接的な観察はなされない。むしろ,構成概念として扱われ,モデル上では潜在変数という数学的抽象物になる。少なくとも潜在変数モデル上では,この潜在変数の値は,さまざまな観察可能な行動,たとえば発話確率,または質問紙の各項目における反応に対する原因となっている。

しかし,改めて,このような潜在変数として不安,動機づけ,やる気は日頃の教育実践のなかで直接的に観察できるものではない

非常にややこしい。どうも遠回りのように思える。

直接的に観察したはずの「私の学生は一向に英語を話さない」を導くために,直接的に観察していない「私の学生は不安が高い」という命題を仮定する,とは。

遠回りというか,余計にも見える。なんのために中間的な命題(しかも怪しい)を(さも与件のように)用意したのだろう?私の学生は一向に話さないじゃだめ?なぜそこに理由付けをしたのだろう?

ううむ。

いやいや,その前に,論理が逆だからだ,というひともいるだろう。たとえば,哲学者のライルや一種の行動主義者にとって,心理特性や能力は,顕在的な行動の(認識的,言語的)カテゴリーであって,一向に英語を話さないという顕在的な行動とその他の行動が属するカテゴリーが,不安,動機づけ,やる気と一般に呼ばれているのだ,みたいな。すなわち,「私の学生が一向に英語を話さない」ということから,逆に不安がある,動機づけの程度が低い,やる気がないを類推していると。なので,もしもいうとしたら,

  • 「私の学生たちは,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さないので,話すことに対する不安をもっているかもしれない
  • 「私の学生たちは英語を話す課題を与えても一向に英語を話さないので,動機づけの程度が低いかもしれない
  • 「私の学生たちは英語を話す課題を与えても一向に英語を話さないので,やる気がないのかもしれない

私もふくめて,これらのような言い方が自然だと感じるタイプのひともいる。一貫してこのようにお話す先生もいらっしゃるように感じる。

効果検証における成果変数となるべきなのは?

そこで問題となるのが,なにかの処遇の効果を検証するための成果変数はどちらの種類であるべきか?ということだ。一向に話さないという行動,沈黙行動としよう,それを「発話確率」として測定し,これを成果変数とするべきなのか?それともスピーキング不安や動機づけの質問紙を使って,その因子得点を成果とするべきなのか?これも考え方による。しかし,外国語教育研究における多数の研究者は,後者の方を成果変数としている。外国語教育研究では,「不安を低減させる教育実践」「動機づけを高める教材」そして民間企業等では「やる気を出させる秘密の方法」などといった表現がいっぱいだ。

非常に面白いことだ。ここで,こんな例を考えてみよう。沈黙行動は「不安」という心理の結果だと考えるように,喫煙行動は,「たばこの吸いたさ」といった心理の結果だと考えることとしよう。この考え方に基づいて,実験をする。ニコチンパッチを貼るグループと貼らないグループにそれぞれひとを割り当てて,事前事後で「たばこの吸いたさ尺度」の合計点を比較する,みたいな。それで,めでたいことに「たばこの吸いたさ尺度」の合計点は貼るグループの方が低くなったぞ!と。で,私は疑う。禁煙はできたのか?タバコは吸わないようになったのか?一方,まったく疑わないのは,質問紙で「たばこを吸いたい」というような反応は下がっている,ということだ。

ここでの問題は,「たばこの吸いたさ尺度」の得点と喫煙行動の間にある相関関係だ。もしもこれが非常に高く,そして喫煙行動を観測するよりもこの質問紙調査や問診をするほうがコストがかからないのであれば,まったく問わない。しかし,どうだろう?アンケートでたばこは吸いたくありませんというような回答をするからといって,実際に喫煙行動をするかどうかの関係性を,非常に高いと見積るひとはいるだろうか。むしろ喫煙者の自分はいつも,「俺は吸いたくないのに喫煙がやめられない」と思うし,世の禁煙セラピーとか禁煙外来もそのような態度のようだ。「やめたいのにやめられない」という広告でいっぱいだ。

さて,スピーキング不安尺度と沈黙行動の関係はどうだろう?同じように,この関係も強いとはいえないだろう。むしろ逆に,「外国語学習に関する心理尺度の得点とその帰結に関すると見込まれている行動の相関関係は,一般のひとや研究者が期待するよりずっと低い」というのが現状だろう。コミュニケーション意欲が高ければ発話数が多い,といった研究も数多くあるが,無相関検定の有意性を報告している程度のことだ。

それと,ある行動の背景には複数の心理的特性があり,複雑な関数関係がある,というのはよく聞く言い分だ。まったくそのとおりだと思う。同じ行動の背景に,不安,動機づけ,やる気…などを見出すくらいなのだから,まさにそうだ。それだけにとどまらず,状況,場面,文脈,時間,そういった種々の要因も無視できない。

それだったら,一向に話さない程度,沈黙行動,または発話確率を直接的に成果変数としたほうがよい。単純で顕在的な行動の方が,心理的特性よりも誤差が少なく扱えるだろうし,複数の研究によって成果を統合するためには変数自体とその測定モデルが揃わなければならないが,これらのいわゆる測定の多様性問題を回避できる。すなわち,より社会的な帰結につながるだろう行動,それもそこに合意が得られやすい行動を成果変数とした方がよいわけだ。

ただし,ある行動が起きて,またはある課題の成績がよいからといって,(関連を見込まれる)他の行動や他課題の成績と連関するとは限らない,そのような複数の行動の背景に潜在変数を考えることは当たり前だ。ただし,その潜在変数が質問紙の得点によって測られているものと相関するかはまた別の問題だ。

目的依存性・帰結・コスト

顕在的な行動の方を成果変数とした方がよい,といってもそれは,教育実践の向上のために,ある処遇の成果を検証する,という目的の場合だ。どんな研究であっても,少なくとも応用分野であれば,目的に依存する。外国語教育研究のような応用分野では,微視的な心理的カニズムというよりも,巨視的な意味での帰結が重要であるから,個人および社会の効用に直結する帰結にあたる顕在的な行動を対象とするほうが,往々にして都合がいいときがある,というだけの話だ。そしてそれもコストによる経済的な側面からも評価される。ある行動を観察するよりも質問紙の方がはるかに安いという場合もないとはいえない。

しかし,ここで私がいいたいのは,我々は必ずしも心理学者にならなければならないというわけではない,ということだ。逆にいうと,心理や認知に帰着せずとも教育実践は向上させられる可能性がある,ということ。餅は餅屋だ。心理学者の真似を苦しくもしながら微視的な心理メカニズムを解明する,または認知機構を明らかにする,そのような目的を常に高らかと掲げる必要もない。そういったスタンスを取れば,科研が通りやすい,論文を載せやすいということはもしかしたらあるかもしれない。しかし,我々教師が業務上で見ること,感じること,実際にやること,そしてやらなければならないことを,なんでもかんでも判を押したように頭の中に追い込むと,ミイラ取りがミイラになるかもしれないし,その間に我々が本当に知りたいことの答え,解決したい問題の解決策はどこかへ逃げていくんじゃないかと思う。

 

 

RでKendall距離,Hamming距離,Cayley距離,Ulam距離

順序間の距離を表す,(編集型の)上記の距離をRでもとめる。PerMallowsパッケージというのを使う。

library(PerMallows)
x<-c(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)
y<-c(2,1,3,4,6,5,7,9,8,10)
distance(x,y,"Kendall")
distance(x,y,"Hamming")
distance(x,y,"Cayley")
distance(x,y,"Ulam")

Rで繰り返し数列を振る

1, 2, 3, ... nという連番を振るなら,

1:10
seq(1,10,1)

などとやればよいのだけど,1からnまでの連番をm回繰り返したいときがある。
たとえば1, 2, 3, 1, 2, 3, 1, 2, 3みたいな。
これもrep関数で便利にできる。

rep(1:3, 3)

しかし,1, 1, 1, 2, 2, 2, 3, 3, 3みたいにしたいときめんどい。
for関数を使えばよい。でも,すぐfor関数を使ったりそれを埋め込んだりする男はディナーの支払いがスマートでない男のようなものだって祖母がいってた。
実はこれ,ちょっと気が効いたやり方がある。

#まずはさっきと同じ
rep(1:3, 3)
[1] 1 2 3 1 2 3 1 2 3

#これを行列にする
matrix(rep(1:3, 3),3,3)
     [,1] [,2] [,3]
[1,]    1    1    1
[2,]    2    2    2
[3,]    3    3    3

#これを転置しちゃう
t(matrix(rep(1:3, 3),3,3))
     [,1] [,2] [,3]
[1,]    1    2    3
[2,]    1    2    3
[3,]    1    2    3

#これを戻す
as.numeric(t(matrix(rep(1:3, 3),3,3)))
[1] 1 1 1 2 2 2 3 3 3

うぇーい。できた。
などとこれまでずっと数年間この方法でやっていたら,最近になってrep関数にオプションがあることを知った。
「なんですかそのジジ臭いやりかたは!」と怒られた。ばあちゃん,ごめん。

#eachを使う
rep(1:3,each=3)
[1] 1 1 1 2 2 2 3 3 3

まぢで。
やはりなんでもすぐ調べる癖をもたなければならぬ。メロスは政治がわからぬらしいが私はなかなかスマートにはなれぬ。

全然わからない研究の話に巻き込まれたときに使う表現集

よくわからない研究の話に巻き込まれる!

私は,大学において外国語科目の授業を行い,外国語の教育,特に高等教育におけるそれに関することを一応研究上の専門としているのだけど,この分野は「〇〇学」と一括りにできるようなものではない。たとえば,私の学位は学術であって〇〇学ではないし,関連学会にはさまざまな「学」を名乗る方が混在している。まあ,平たくいえば,学際分野のひとつになっているわけ。

学際分野といえば聞こえはいいけど,要するにさまざまな経歴,背景,信条,技術をお持ちの方が近くにいっぱいいらっしゃるわけで,具体的にいえば,文学,言語学,教育学,心理学,最近では工学,経済学,社会学などに関連するキャリアをおもちの方々がひとつの学会に集まったり,査読をしあったりするというわけだ。上記のような名前が入る学会にこちらから勉強しにいくこともある。

根本的に私が不勉強なだけなのかもだけど,当然ながら,このような多様化が進むにつれて,コミュニケーションはうまくいかなくなってくる理屈だ。懇親会に勇気を振り絞って参加してみたものの,言葉を交わす相手がまったくなにをおっしゃっているかがわからないことが(少なくとも私には)ままある。はっきりいって専門用語が多すぎてついていけない。この分野にはアルファベット略の専門用語も多すぎる。なにか薬学とか化学の話をしているのかな?などと思ってしまう。

どうにかしてうまく乗り切りたい!

そのたびごとに,こちらが意を介していないような素振りを見せたり,露骨に不機嫌な顔をしたりするのは社会人として慎みたいところだ。…ああ,そうか,「カラオケに見られるような互恵主義的慣習がここでうまく機能しているのだなあ」とでも思いたい。私はあなたの話をまったく介していないし面白くもないし,お酒はもういいから帰ってホテルでhuluとかnetflixとか使って海外ドラマを鑑賞したいのだけど,ああ,それでも私の話を聞いてもらったのだから,今度はこちらも話を合わせるのが礼儀か,みたいな。つまり,そういうことみたい。

しかし,変に内容に質問したりコメントをしたりすると,学の浅いやつだと思われてしまう。できれば,まったくお話の内容には関知せずに,さもお話の内容を理解しているような態度を見せつつ,話し手を気持ちよくするような合いの手を入れたい。

合いの手を入れる!

そういうときに,以下のような表現が役に立つかも。5種類くらいをランダムにいっておけば間違いない。

  • …なるほど…そうなりますか…
  • それは先生らしい着眼点ですね
  • ほーほー,面白そうですね
  • なかなかそれをなさる研究者はいらっしゃらないでしょう
  • 本当に,〇〇を研究なさる方には頭が下がります
  • その研究テーマは,重要性に反して本当に研究が少ないですよね
  • まさに今の社会には必要な研究ですね
  • そのように思っている研究者は多いと思います
  • 測定の精度も問題というわけですね
  • それが何を測っているかを真剣に考えてみるわけですか
  • いろんなところにバイアスがあるのが科学ですからねえ
  • きっと素晴らしい論文になるでしょう
  • これまでのモデルでは明らかにうまくいかなかったですものね
  • そういう研究はこれまで聞いたことがありませんねえ(勉強不足で)
  • そういうところをしっかりしてないのが過去の研究の悪いところですね
  • それは今後流行ると確信していました
  • そのデータを取るのも簡単ではありませんよね
  • 私も実はずっとそうじゃないかと思っていました
  • 確かに問題がなかったとはいえませんものね

内容などに一切関知せずに,それっぽくなる。無情報がもっとも安全だというわけだ。コールドリーディングとかのテクニックに似ている。

話題を移行させる!

ちょっとだけ知識があるんだったら,不勉強をこちらから告白して御高説モードに移行させるのもひとつのテクだ。下手に質問するよりはるかに安全。

  • その分野は,〇〇(2010)の概論書を斜め読みしたぐらいで…
  • なかなか私のようなものにはその分野は手が出ないところにありまして
  • その分野は,難しくてなかなかついていけておりませんもので…

こうすると御高説モードになるから,いい塩梅で思い切り,

  • 先生,今日は勉強させていただいてありがとうございました。できれば今度,どこかでご講演をお願いしたいところですが,私などにはそんな裁量はなくて…えへへ

これでバッチリ。

ちょっと強引だけど,どうしても話を変えたいときは,

  • 先生,今回はどちらのホテルをお取りです?
  • せっかくですからなにか美味しいものを食べて帰りたいですねえ
  • 今年は晴れてよかったですねえ

などと,天気,土地,旅行など差し障りのないネタを入れて牽制する。中年以上のベテランの方には健康の話やご子息の話をしておけば安全。若手中堅は子育て,勤務,待遇,学会運営の話を,とにかく愚痴に共感すると小難しい研究の話をされずに済む。院生には業績や恋愛の話をしておく。このように話題転換も大事かな,と。

  • 先生はいつもご健康でいらっしゃいますねえ
  • ご子息はもう大学を出るころですか
  • お子さんはいくつになられるんでしたっけ?
  • 〇〇さんも大変そうですねえ
  • なかなか院生には大変な時期だよねえ
  • いきなり失礼だけど,えと,あの,聞きづらいんだけど…

これで話題が変えられるかも。これで学会で全然わからない研究の話に巻き込まれても安心だ。

 

…なんだこの記事?