validityって掲載寄与力?
外国語教育研究では,たまに妥当性を,
- 科学的コミュニティにおいてある変数の質やある実験手順が広く受けいられている度合い
- 科学的コミュニティが共有している変数の質に対する信念の度合い
- 一般に「妥当性についての証拠とされる観測」が過去に示された程度
というような意味で使ってらっしゃる先生を見かける。
まあ,わからんくもない,ラディカルでいらっしゃるなあ,というかんじ。
でも,実質的にはあくまでも
「ある変数の使用や実験手順の採用について,査読者や論文の読み手に批判を貰わない程度」
という理解でいつつ,
古典的な感じで「測りたいものが測れている度合い」
と開き直っていうのはなんだかな。
なんか,暗に逆説的に「科学的コミュニティで受けいられる(られている)ということは,測りたいものが測れているんだ」みたいになっちゃうし。
外国語教育研究や第二言語習得研究では,「事前に先行研究で使用された実例がある」というようなのを頑張って列挙するときがある。別に悪くない。でも,なんだかな。
もはや,大事なのは妥当性ではなく,「ある変数の使用や実験手順の採用について,査読者や論文の読み手に批判を貰わない程度」であるというのなら,殊更妥当性というような実質はよくわからない概念を互いによくわからないままの状態で使ってコミュニケーションしなくてもいいんじゃないかなんて,擦れた気持ちになる。
もう妥当性じゃなくて「掲載寄与力」「パブリケーション力」とかいえばいい。ちょっと気が引けるなら「通用性」とか「慣習性」といえばいい。この変数は慣習性が高いですよ,こんなにたくさんの研究で(または立派な雑誌で)すでに受け入れられていますよ。こんなに他分野でも通用している手順ですよ,みたいに開き直っていった方がすっきりする。
外国語教育研究は実学だからこういうところ難しいけど,でもだからってほおっておいていいってわけじゃないと思うな。