草薙の研究ログ

英語教育関係。でも最近は統計(特にR)ネタが中心。

頭の中に追い込むときっとそれはどこかへ逃げていく

よくある話

  • 「私の学生たちには,話すことに対する不安があるため,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない」
  • 「私の学生たちは,動機づけの程度が低いため,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない」
  • 「私の学生たちは,やる気がないため,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない」

などといった旨の言明は,職員室や飲み会における英語教師同士の会話によく出てくるだけでなく,英語教育に関する学会にでもいけば,一日に3個は用例を見いだせるような,そんなありきたりのものだ。

こういった言明の理屈

このような言い方自体が悪いのだ,という含意はまったくないが,これらには考えるべき点がいくつも含まれている,というのも事実だ。

1つ目は,if then形式の命題(if-then proposition)与件として与えられているように読める点だ。以下のような命題が前提にされている言明に読める。

  • (if)もしも話すことに不安がある場合,(then)英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない
  • (if)もしも動機づけの程度が低い場合,(then)英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない
  • (if)もしもやる気がない場合,(then)英語を話す課題を与えても一向に英語を話さない

当たり前のように,つまり与件のようにいわれているが,これらの命題自体は一向に未検証なままの場合もあるし,合理的に与件とされて検証する必要がないとされるか,または心理学といった他分野の先行研究に基礎付けされているのだぞ!と主張されることもある。まあ,場合によるけど,正直いって結構あやしいもんだ。主観を表しているにすぎないときもある。

とにかく,このif-then propositionに対して,「私の学生は不安がある」「私の学生は動機づけの程度が低い」「私の学生はやる気がない」といった命題を付け足して,演繹的に,「私の学生は英語を話さない」を導いているというわけだ。

私の学生は不安がある → 不安があると一般的に人は話さない → だから私の学生は話さない。なるほどな,と。

…ん,そうなのか?演繹なのか?

私たち教師は,一向に英語を話さない様子を一種の行動として観察している。ある程度手順を工夫して定めれば,英語を話さない様子も記録することができるだろう。

一方,不安がある,動機づけの程度が低い,やる気がないはどうだろう?不安,動機づけ,やる気は一般に心理的特性だと考えられていて,直接的な観察はなされない。むしろ,構成概念として扱われ,モデル上では潜在変数という数学的抽象物になる。少なくとも潜在変数モデル上では,この潜在変数の値は,さまざまな観察可能な行動,たとえば発話確率,または質問紙の各項目における反応に対する原因となっている。

しかし,改めて,このような潜在変数として不安,動機づけ,やる気は日頃の教育実践のなかで直接的に観察できるものではない

非常にややこしい。どうも遠回りのように思える。

直接的に観察したはずの「私の学生は一向に英語を話さない」を導くために,直接的に観察していない「私の学生は不安が高い」という命題を仮定する,とは。

遠回りというか,余計にも見える。なんのために中間的な命題(しかも怪しい)を(さも与件のように)用意したのだろう?私の学生は一向に話さないじゃだめ?なぜそこに理由付けをしたのだろう?

ううむ。

いやいや,その前に,論理が逆だからだ,というひともいるだろう。たとえば,哲学者のライルや一種の行動主義者にとって,心理特性や能力は,顕在的な行動の(認識的,言語的)カテゴリーであって,一向に英語を話さないという顕在的な行動とその他の行動が属するカテゴリーが,不安,動機づけ,やる気と一般に呼ばれているのだ,みたいな。すなわち,「私の学生が一向に英語を話さない」ということから,逆に不安がある,動機づけの程度が低い,やる気がないを類推していると。なので,もしもいうとしたら,

  • 「私の学生たちは,英語を話す課題を与えても一向に英語を話さないので,話すことに対する不安をもっているかもしれない
  • 「私の学生たちは英語を話す課題を与えても一向に英語を話さないので,動機づけの程度が低いかもしれない
  • 「私の学生たちは英語を話す課題を与えても一向に英語を話さないので,やる気がないのかもしれない

私もふくめて,これらのような言い方が自然だと感じるタイプのひともいる。一貫してこのようにお話す先生もいらっしゃるように感じる。

効果検証における成果変数となるべきなのは?

そこで問題となるのが,なにかの処遇の効果を検証するための成果変数はどちらの種類であるべきか?ということだ。一向に話さないという行動,沈黙行動としよう,それを「発話確率」として測定し,これを成果変数とするべきなのか?それともスピーキング不安や動機づけの質問紙を使って,その因子得点を成果とするべきなのか?これも考え方による。しかし,外国語教育研究における多数の研究者は,後者の方を成果変数としている。外国語教育研究では,「不安を低減させる教育実践」「動機づけを高める教材」そして民間企業等では「やる気を出させる秘密の方法」などといった表現がいっぱいだ。

非常に面白いことだ。ここで,こんな例を考えてみよう。沈黙行動は「不安」という心理の結果だと考えるように,喫煙行動は,「たばこの吸いたさ」といった心理の結果だと考えることとしよう。この考え方に基づいて,実験をする。ニコチンパッチを貼るグループと貼らないグループにそれぞれひとを割り当てて,事前事後で「たばこの吸いたさ尺度」の合計点を比較する,みたいな。それで,めでたいことに「たばこの吸いたさ尺度」の合計点は貼るグループの方が低くなったぞ!と。で,私は疑う。禁煙はできたのか?タバコは吸わないようになったのか?一方,まったく疑わないのは,質問紙で「たばこを吸いたい」というような反応は下がっている,ということだ。

ここでの問題は,「たばこの吸いたさ尺度」の得点と喫煙行動の間にある相関関係だ。もしもこれが非常に高く,そして喫煙行動を観測するよりもこの質問紙調査や問診をするほうがコストがかからないのであれば,まったく問わない。しかし,どうだろう?アンケートでたばこは吸いたくありませんというような回答をするからといって,実際に喫煙行動をするかどうかの関係性を,非常に高いと見積るひとはいるだろうか。むしろ喫煙者の自分はいつも,「俺は吸いたくないのに喫煙がやめられない」と思うし,世の禁煙セラピーとか禁煙外来もそのような態度のようだ。「やめたいのにやめられない」という広告でいっぱいだ。

さて,スピーキング不安尺度と沈黙行動の関係はどうだろう?同じように,この関係も強いとはいえないだろう。むしろ逆に,「外国語学習に関する心理尺度の得点とその帰結に関すると見込まれている行動の相関関係は,一般のひとや研究者が期待するよりずっと低い」というのが現状だろう。コミュニケーション意欲が高ければ発話数が多い,といった研究も数多くあるが,無相関検定の有意性を報告している程度のことだ。

それと,ある行動の背景には複数の心理的特性があり,複雑な関数関係がある,というのはよく聞く言い分だ。まったくそのとおりだと思う。同じ行動の背景に,不安,動機づけ,やる気…などを見出すくらいなのだから,まさにそうだ。それだけにとどまらず,状況,場面,文脈,時間,そういった種々の要因も無視できない。

それだったら,一向に話さない程度,沈黙行動,または発話確率を直接的に成果変数としたほうがよい。単純で顕在的な行動の方が,心理的特性よりも誤差が少なく扱えるだろうし,複数の研究によって成果を統合するためには変数自体とその測定モデルが揃わなければならないが,これらのいわゆる測定の多様性問題を回避できる。すなわち,より社会的な帰結につながるだろう行動,それもそこに合意が得られやすい行動を成果変数とした方がよいわけだ。

ただし,ある行動が起きて,またはある課題の成績がよいからといって,(関連を見込まれる)他の行動や他課題の成績と連関するとは限らない,そのような複数の行動の背景に潜在変数を考えることは当たり前だ。ただし,その潜在変数が質問紙の得点によって測られているものと相関するかはまた別の問題だ。

目的依存性・帰結・コスト

顕在的な行動の方を成果変数とした方がよい,といってもそれは,教育実践の向上のために,ある処遇の成果を検証する,という目的の場合だ。どんな研究であっても,少なくとも応用分野であれば,目的に依存する。外国語教育研究のような応用分野では,微視的な心理的カニズムというよりも,巨視的な意味での帰結が重要であるから,個人および社会の効用に直結する帰結にあたる顕在的な行動を対象とするほうが,往々にして都合がいいときがある,というだけの話だ。そしてそれもコストによる経済的な側面からも評価される。ある行動を観察するよりも質問紙の方がはるかに安いという場合もないとはいえない。

しかし,ここで私がいいたいのは,我々は必ずしも心理学者にならなければならないというわけではない,ということだ。逆にいうと,心理や認知に帰着せずとも教育実践は向上させられる可能性がある,ということ。餅は餅屋だ。心理学者の真似を苦しくもしながら微視的な心理メカニズムを解明する,または認知機構を明らかにする,そのような目的を常に高らかと掲げる必要もない。そういったスタンスを取れば,科研が通りやすい,論文を載せやすいということはもしかしたらあるかもしれない。しかし,我々教師が業務上で見ること,感じること,実際にやること,そしてやらなければならないことを,なんでもかんでも判を押したように頭の中に追い込むと,ミイラ取りがミイラになるかもしれないし,その間に我々が本当に知りたいことの答え,解決したい問題の解決策はどこかへ逃げていくんじゃないかと思う。