草薙の研究ログ

英語教育関係。でも最近は統計(特にR)ネタが中心。

気軽に「説明」とはもういわない

説明

あいも変わらず,不勉強ゆえに,よく考えずに軽々しく,説明などという難しいことばを何度も使ってきたものだが(幸いなことにあまり自分の論文や原稿には使用例が見当たらなかったが),他人の使用はどうであれ,私はこの説明ということばを軽々しく使わないことを,死んだ愛犬のジョンに誓った。私が知る限り,少なくともこのことばは,かなりの頻度をもって,健全なコミュニケーションを妨げる。

演繹のこと

説明の科学的定義ともいったりするらしい。一般法則から個別の事象を導くことなど。これは,もっとひろく論理学的にいえば演繹のことだ。

妥当な推論であるところの「A(条件,または仮定)ならばB(帰結,または結論)である」とAが真であるということから,Bが真であると導くわけだ。

人間の会話を例にすると,「どうしてご飯を食べたの?」という疑問に対して,「だってお腹が空いていたんだ」と答えるのは,質問者と回答者の中で,「お腹が空いていれば(条件),ご飯を食べる(帰結)」を妥当な推論として先んじて共有した上で,回答者しか知らぬ条件「お腹が空いている(いた)」が真であることを回答者に知らせ,演繹によってすでに得られた帰結を再確認することだ。

つまり,議論に先んじて得られた帰結と,未だ共有されていない条件の下で,条件を伝え,帰結が演繹によって再確認できることを示す。

 

心理的帰結のこと

説明の心理学的定義ともいったりするらしい。この定義において説明とは,帰結主義的に,人間の主観および内観において,納得した,理解したという心的状態をもたらすこと,といった具合だ。たとえば,数理モデルで完璧な予測と制御ができる状態でも,それは説明したとはいわないというひともいるし,数式を読む人にとっては数式によって心理学的に納得したと感じるかもしれないし,自然言語でなにかのメタファーを使わなければ納得したと感じないひともいる。大概の場合,なんらかのメタファーと後述するアブダクションによって,納得したと感じるひとが多い。ある研究について,頻繁に「直観に合う」とか「面白い」とか「興味深い」という形容をされる研究者にとって,大概説明とはこの心理的帰結のことだ。草薙がこういうタイプの研究者を悪くいっている,と皺を寄せる方もいるかもしれないが,ここのいい方に他意はない。ただ,そういう方もいる,という記述を与えているだけだ。

 

アブダクションのこと

パースのアブダクションを論理のひとつとして認めるひともいるし,すくなくともこれが文字通り仮説形成という役割で,我々の研究においてものすごく重要であることは誰も疑わないと思う。しかし,くだらないかもしれないが,もちろん,アブダクションは演繹ではない。

アブダクションは,所与の帰結Bと,A→Bを妥当な推論とみなすことによってAについて推論することだ。もちろん,これはA⇔Bでなければ正しいという保証がない。ご飯を食べたという帰結と,「お腹が空いているとご飯を食べる」が妥当な論理であるとしたうえで,「お腹が空いていたのだろう」と推論することだ。

アブダクションがだめとはいわないが,これは演繹による確認という意味の説明ではないアブダクションは,数理モデリングではとてつもなく重要で,尤度とかベイズ推定という根幹をなす考え方なんだけど,もっともらしいということを説明とはいわない。

心(mind)一般について私が受け入れない理由はこれだ。私は一般に,(専門用語としての)心は行動からアブダクションされたものだと考えている。たとえば,英会話場面における発話数が少ないという帰結と,スピーキング不安が高ければ,英会話場面における発話数が少ないという(どこから来たかわからない)デカルト的な論理によって,(心としての)スピーキング不安が高いという条件をアブダクションしている。これは少なくとも演繹的な説明の科学的定義に沿うものではない。仮説形成であるとしても,心が見えないばっかりに,このアブダクションされた仮定や条件を直接的に調べる方法はありえない。

予測と統御

最近では,実データの予測と統御がある社会的文脈と歴史の上である程度可能であるという事実を説明と呼ぶという態度も見られる。私自身は,心理的帰結を説明に積極的に含めるならば,別にこれを説明とみなすこともまったくやぶさかではない考えなのだが,コミュニケーションを妨げるひとつ原因であると感じるようになった。*1

で,どうするか

演繹の場合は演繹,アブダクションの場合はアブダクション,予測と制御,そして心理学的帰結をそれぞれいいわける必要があると痛感している。以下のような使い方をする。

  • 結果は,論理Xと仮定Yによって演繹的に導かれる
  • この言明は,あるひとにとって,心理学的帰結としての説明をもたらす可能性がある(または,広くいってこの言明は効用をもたらす可能性がある)
  • 本論文は,観測されたXと論理YによってZという仮説を立てた
  • この数理モデルから得られる予測値は,観測データの優れた近似になった

ここまでのまとめ

これまでの「もういわない」は以下の通り。

  • 測定する
  • 客観的
  • 説明

…なので必然的に私は,これからの研究実践において,「客観的な方法でなにかを測定して,事象やその背景にあるメカニズムを説明する」ことはない。

 

 

*1:モデリングという考えについて話すときに,毎回「それは説明ではない」とか「それは予測ができるだけで意味がない」というコメントをいただく。何度も,ほぼ必ずといっていいほどこういったお叱りを受けるので,対応テンプレートを用意した。まず,前もって,説明とはいわないことだ。大概は,モデリングによる予測と制御によって,個人および集団の効用を高めることを目標とするといっておけばよい。事実まったくそのように考えているし,個人の心理的帰結としての説明を受け入れるならば,これを説明といわない境界線について考え始めなければならなくなるから。次に,予測ができないが納得する説明と,先生はなぜか納得はされないが完全な予測ができる説明では,どちらが経済学的な意味での成果になりますか?と聞き返すことだ。最後に,先生がおっしゃる説明や意味とはなんですか?と聞き返すことだ。大概これで嫌な顔をされるが会話は終わる