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草薙の研究ログ

英語教育関係。でも最近は統計(特にR)ネタが中心。

発表はスライド投影かハンドアウトか

時代とその時々のインフラによって物事のスタイルはよく変わる。物事自体はあまり変わらないのだけど。

私が学部生のときには既に、プレゼンといえばスライド投影だった。Microsoftパワポを使うのがかなり一般化していたので、当時からスライド投影のことをパワポというくらいだった。

私が大学院に入った2010年ころ、日本の英語教育の学会ではもちろんスライド投影が主流で、スライドを印刷した紙の資料も配るようだった。一方言語学や文学の学会では論文のようなものを配り、それを原稿といって読み上げるようだった。

それから年を経るにつれ、英語教育の学会におけるスライド投影発表は変わらなかったが、徐々に印刷物を配らないようになってきた。「海外では配らないのが主流」とか「ペーパーレス化が時代」というような話を聞くようにもなったころだった。こういうことをいうのは中堅の先生たちだったと思う。多分ロジスティック回帰をかければ資料配布の有無という応答変数に対して、発表者の年齢は有意な予測子だ。

さらにあわせてタブレットの流行やラップトップの進化もあり、またSNSやファイル共有サービスも発達してきた。そしたら資料はウェブで公開し、配布資料を渡すのはますますなくなってきた。中堅や若手はツイッターなとで自分の発表について宣伝し、ウェブ上で資料を公開するようなスタイルになり、発表についてツイッターといった特定のメディアで実況するようになった。これは研究者の年代によるデバイドも関わりそう。

私も浅はかなことに、そういう流れをよいと思い、よく考えずにこれまで真似してきた。でも最近はこのスタイルを冷静に見直すべきだと思うようになった。

簡単にいえば、少なくても自分の場合は「スライド投影で資料なし、ウェブ上で公開」というスタイルでなく「スライド無しでタブライティングないし論文形式のハンドアウト配布、ウェブ上での公開も慎重に」の方がいいのではと。

まず前者のスタイルの主ないいところは、スライドの方が視覚的効果が強く、印象を与えやすい。また印刷代がかからないことだ。しかし、ハンドアウトよりもコミュニケーションできる情報量がかなり少ない。たとえば長い英文、言語学的な意味での例文自体、句構造といった記号的表現、数式や論理式、アルゴリズムや統計モデル、表、統計グラフ、分析のソースコードそして文献リストといった科学的コミュニケーションを成り立たせる極めて大事な要素が一切意味をなさない。話に合わせてちらっと見るだけで理解できるようなものではない。たとえば参考文献リストを10秒だけ見せる意味はない。論文によるコミュニケーションが本質だとしても、学会がその程度のみのコミュニケーションを取る専用の場であるべきとも思わない。(私が例文や句構造や数式やグラフを多用しすぎるというのもある)

ウェブ上で公開するといっても、大抵は発表後に資料をくれという方が何人かいらっしゃる。その度に人の数だけメールをしなければならない。またツイッターやその他のサービスはユーザがかなり限られていて他ならぬコミュニケーションの場としてのボトルネックになる。(私がそういうサービスに疎いというのもある)

スライドを作るのは、タブライティングよりも作成に圧倒的に手間や時間がかかり、美観を保つのには独自の技術がいる。Microsoftのバワポは一応(教える)授業で扱っていたけど、操作が難しいし、ソースコードや論文を書くといった仕事に比べかなりイレギャラーだ。てふで書けばいいのだけど。発表も身振り手振りやジョークを交えたりする技能や外国語の覚えがなくても、基本は読み上げるとちゃんと伝わるはず。(私がパワポや話が苦手だというだけの気もする)

さらにスライドのみだと機器のトラブルもあるし、席によって見えない場合も多い。紙ではそんなことはない。また紙は少なくても発表中は聞き手読み手に対してインタラクティブなデバイスだ。

こういう事情を考えるとハンドアウトを紙として、タブライティングや論文形式で作成し、それを配布した方がいいんじゃないかと思う。つまり伝統的なのが一番かと。

インフラは変わってきたけど科学的コミュニケーションの本質は変わらないのじゃないのかな。だから今こそ紙というデバイスの価値を見直したらどうだろう。

私自身は最近ハンドアウトスタイルに徐々に切り替えているけど、反応も悪くないと思う。(ただし慢性的に私の発表自体の質は低いままだ)