草薙の研究ログ

英語の先生をやってます。

「私は本質病が怖かった…」:研究テーマの決め方(2)

本質病って?

前回の記事で,私は私のアイデンティティをそこに見出せるような研究テーマを持たなかった,という個人的な話を変な喩え話を使って書いた。「俺は殺し屋になりたいのであって,敵討ちしたいわけではなかった」っと院生のときに考えたっていう。まあ,平たく言ってこれはその話の続きなんだ。
 私が研究テーマを持たなかったのは,研究テーマをドヤ顔でいう世界が恥ずかしかったことに加えて,ある病気が怖かったからでもあるんだ。ここではその病を本質病と呼ぶことにしよう。本質病ってのは,私の命名でなくて,物理学の武谷三男先生の著書で述べられてるらしい。
 なんか本質病っていえば大げさなんだけど,要は,実際に検証可能なレベルまで研究テーマを絞ることが研究技術としてできなくて,もっぱら解決不可能で,しばしば壮大な思弁に終始するような状態だ。「そもそも本質的には…」みたいな話。「そもそも」って表現がポイントかな。もちろん,分野を限らず,大学院生にも多い。卒論指導の初期段階でもよく見られるし,引退なさった大先生も人によってこうなってらっしゃる場合がある。研究として成立しないような壮大なテーマをいつも語るひと,そんな感じ。

本質病でいいじゃないの

 もちろん,こういう状態も視野を広げたりするのに役立つし,思索を続けるのはなによりも大事だ。研究という営為を日常的にするなら,誰もが経験あることだろうし,私もよくこうなる。いまもそうじゃないかって疑うくらい。いつも,自分は本質病じゃないかって神経質にもなる。
 本質病が悪いかっていったら,別に悪いことだともいいきれない。なにより,知的な原動力を示すからいいじゃないの。パースの「探求の道を塞ぐな」だよね。これは自分の原点だともいえることば。
 素晴らしい。本質病,そういう意味でかっこいいじゃん。「どうでもいいわ」よりは「そもそも本質とは…」ってやっぱかっこいいじゃない。
 それにかなり冷めた目,特に機能文脈的に見ても,本質病を揶揄してもしょうがないし,そういう風土は研究を抑制させる機能を内在させる。本質病の話もちゃんと聞くのが研究コミュニティのマナーだと思う。研究者だったら,そういう話は,常に真剣に耳を傾けるべきだと思うんだ。

それでもやっぱ怖かった…

 しかし,私は自分のやたらと限られた例からだけど,個人的にこう思ったんだよね。2011年のことだったかね。この本質病ってのは,単純に研究が行き詰まった状態のことを示してるんじゃないかって。
 もっといえば,実行可能な研究テーマやその研究の手順がまったく計画できないとき,まさにその状態のことをそういっているのじゃないって。そういうとき,身の丈に合わないような,そもそも不可能なテーマとかを考えちゃう。統計的にいって。現実がそうであるという観測を伴って。
 「本質とは何か」といっちゃうような顕著な志向性が本質ではなくて,研究が進まない状態それ自身が本質病の本質だって。なんとなく,そう思ったんだ。そんな自信無いけどね。
 なんていうか,私は,まさに研究の手順すらまったく計画できない状態,というのがひたすら怖かったんだ。ほんとう,それはもう怖くてたまらなかった。いつも,血の流れが止まっていずれ破裂するようなイメージを持っていた。なんていうか,死に方のひとつなんだ。サラサラ血液みたいに,流れがよくなれば血液はサラサラ,それはもうサラサラなんだけど,なんかその流れが塞がって破裂して結果として死んじゃう,みたいな。そんなイメージがいつもいつも湧いて,私を苦しめた。卒中で死ぬ,そういう悪夢にいつもうなされた。
 自分のことだけじゃなくて,どうやら研究上でそうなってる人を,それこそ本当にたくさん見てきたんだ。その栓みたいなのが取れて流れ出すのが,閃きとか光とかいって,カタルシス感じれて研究は素晴らしいとかいうけど,なんていうかやっぱ怖かったんだ。学位がかかっていれば,期間内にその研究が終わらないといけない。そういう制約は常にある。
 当たり前だけど,若いうちには業績もないと飯も食えない。業績がないと研究ができない。それに一番怖かったのは,本質病の人たちがいずれコミュニティからいなくなること,だった。破裂すると「俺,研究向いてないわ…」って言い出す。一緒に青春を過ごしたひとがいなくなるのはつらいよね。来週からゼミこない,みたいな。どうやらそういう話すら禁じられているようだった。

本質病から抜け出すには

 なんだかんだいっても,結局,研究テーマの決め方,あとは研究手順の計画の技量を高めるしかないのよね。そのためには,まずは研究の手順に慣れること。些細なことから順番に。次に,些細な研究テーマをできるだけ多く立てること。
 これはスケッチと一緒。こう考えると,まずはとにかく実験手順とかに親しんで,ひたすら研究テーマみたいなのを書いてみたらいい。そうしたら,下手な鉄砲数撃ちゃ当たる的な感じでそれらしい研究テーマも見つかる。
 だから,くだらなくてもいい,学術的な貢献や意義は置いといてもいい,とにかく自分にできることを考えて,手当たり次第に研究したらいいじゃないかと思ったんだ。だから自分もまったく意味のないような研究をたくさんした。今だとなんの貢献も意味もないことがわかる。これは自分の職業的適正を高めるためだけのもので,今なら何の意義も意味もないことがわかる(大事なことなので二回ね)。
 正直,自分の研究なんて,全部,たまたまなんだよね。別になんの興味もないし,社会的に大事だともまったく思っていない。もっと社会的に大事なことは知っているつもり。これらが私の業績だと認められることも拒みたいくらい。
 私の観点はそうじゃなかった。まさにwant to doよりもcan doよ。そうやってたら,can doが増えてさ,いつかcan doリストに来たるべきwant to doが入るんじゃないかって。そんな感じでたくさんやったらどうかって。まずは自分が何が知りたいかとかさ,そんなドラマチックで個人的なストーリーは置いていて。そういう技術の習得の過程だと思ってさ。いつか好きにできるようになることを信じて,まずはその研究テーマとかいうのは置いておいて,修行しようって話。私は,院生の限られたときの業績よりも,それ以降の業績の意義が遥かに大きいってポジティブに信じることにしたんだ。実際そうなるかってわからないけどね。

最小単位でパラミタを変える

 うまい研究の立て方っていえば,そんなのはすぐに出てくるわけないけど,具体的なレベルでの研究テーマの実行可能性の判断は,結構体系的なものだと思う。一番簡単なのは,実験におけるパラミタのごく一部,そのパラミタの変動が依然として未知なものに変えることだ。サンプルとか,実験条件とか,実験方法とか,そういったごく一部のパラミタだけを変えて,既存の論文の実験手続きを真似る。これは結構大事なことだと思う。サンプルが日本人学習者でなければ,それを日本人学習者にすっかり変えた実験をしてみるとか,同じ仮説を検証するために,違う方法を使ってみる,そういうテクニックだ。もちろん,だから新しい方法を試すってのも大事。なんていうか,偏微分な,ね。これが研究テーマの探り方で一番重要なことだと思うんだ。

細かいところではより小さく,よくわからないところではより大きく実験条件を設定する

 十分に知られている現象に当たるときは,実験条件の細かな値域みたいなのの幅を細かく設定することで新規性が得られる。十分に知られていないときは,実験条件の値域を大きく設定したほうがうまくいきやすい。

同一理論の説明範囲を広げる

 ある現象を説明する理論を,別の現象の説明に使う。これは一般的な科学的な推論における重要な方向性だと思う。結局,類推(アナロジーは研究者が思うよりも重大な役割を演じる。だから,マイナーな現象をよく知られた理論で説明しようとする試みは結構いい研究テーマになる。

説明できない現象の存在を認めた上で理論を守る

 これ自体は必ずしもよくないけど,理論っていうのは思ったよりも,というか研究者じゃない人が思うよりも,実態ははるかに脆弱なもので,特に英語教育なんていつもそうだから。仮説の修正やアドホックな補助仮説の添加が重要な研究上の機能だったりもする。こういった仮説の修正やアドホックな補助仮説の添加は,十分にいい研究テーマになる。

適当で曖昧な言い方を形式化する

 これはあまり現在の英語教育研究で使用されているわけでないけど,科学的な知見の最初期において,必ずしもその知見が形式的で無矛盾な記述によって表されているとは限らない。このような知見を整理して形式的に言い換えることは十分な研究テーマになりうる。現在,私はこういう研究のあり方に取り組んでいる。

最後に

 研究テーマの設定方法はあまりにも複雑で,枚挙的に種類を出していくにはあまりにも多すぎるけど,結局,こういう技術的なレパートリーの話なんじゃないかって思っている。ここで唐突に上げたのはそういう技術の代表例。
 繰り返すけど,本質とは何かみたいな志向性についてあれこれ考えるのではなくて,研究の実現力を欠いた状態の解決方法について我々は真剣になるべきで,研究テーマの決め方や研究手続きの計画の技能が上がれば,こういった状況には陥らないのかな,って思っているんだ。
 逆にいうと,研究が進まくなるようなカリキュラムや,制度,そういったものは常に本質病を催す環境になっているっていうこと。やり方も教えずに,できない人を個人的に批判するな,そういう観点も大事だと思う。実行可能かもわからないから,実行不可能なことを考えるんだもんね。
 英語教育研究は応用分野だけど,こういった研究テーマの決め方についても十分に意見交換したいもんだよね。

「私には研究テーマがなかった…」:研究テーマの決め方

研究テーマの決め方を巡る議論

 研究テーマをどのように決めるべきか,そして誰が決めるべきかといった規範的なはなしから,どのように決めているか,誰が決めているかといった記述的なはなしまで,とにかく研究テーマの決め方については議論が絶えない。もちろん,文系だとか理系だとかいうようなさして意味のない区分における差,たとえば「理系は指導教員が決める」かつ「文系は自分で探しだす」から始まり,究極的にはその研究室や指導教員の方針によるところが大きい。結局,指導教員との十分な相談による,というほかない。規範についていえば,すべての文脈を無視してこうあるべきだ,なんていうのはもちろんありえない。

決め方を巡って

 こういった論では大抵,3つの要因が話題に上がる。
 1つは,実行可能性。もちろん,研究室がもつ機材とか予算といった資源から始まり,指導教員の専門性,そして個人の資質能力も実行可能性に入る。
 2つ目は,意義。社会及び学問的にある程度の効用をもつことが期待されるわけだから,ひらたくいえば意義のない研究テーマは成立しない。
 最後は,合意性。結局のところ,本人が望んでいない研究テーマはモチベーションの問題などで研究が進まないし,指導教員との合意がない指導は難しい。
 これらを勘案すると,実行可能であり,意義があって,そして本人や指導教員が十分に合意できる研究テーマにするとよい,とまあ,そんな話になる。これら3つが大きく重複している。
 大事なのは,いずれも個人的な問題ではない,ということだ。どれだけ個人があることが好きでやりたがろうが,実行不可能だったり,意義がない研究は成り立たない。そういう研究は結局の所,合意性が得られない。そもそも(指導を受ける)研究全体が,個人的な問題ではない。そして,研究とは基本的に社会的行為だということを意識したいものだ。

冒険者の2つ名

 なんてまあ常識的な一般論を挟んでおいて,これからが私のとりとめのない話。
 私は私の領域で,ずっとこの研究テーマというものに悩まされ続けた。どこにいっても「研究テーマはなんですか?」とか「どんな研究をしているの?」というように聞かれる。私は研究テーマや,さらに自分の専門というのを答えるのがとても嫌だった。
 たとえば,研究というのには程遠い学部一年生のことを今も忘れない。高校の卒業式で,校長先生は私たち卒業生にこう言葉をかけた。「みなさんの人生はまだ何も決まっていない。無限の可能性がある!」
 おお,いいぞ。人間主義的で温かいじゃないか。
 しかし,その後大学に入ったら,入学式直後に大学の先生はこう声をかけた。「お前の専門は何だ?!それに若い体力を全部ぶつけろ!!」みたいな世界だった。「あれ,自分の人生はまだ何も決まっていないし,自分には何の専門もないんじゃ…」と鳩の豆鉄砲だった。
 大学院に入っても同じだった。魔法と剣のファンタジーものに出てくる冒険者が自己紹介するときの2つ名のように,専門分野だの研究テーマが常に会話につきまとった。
 「俺は風の魔法剣士くさなぎ!」とか「人は俺を赤き流星と呼ぶ…」みたいな世界に思えてちょっと滑稽だった。何も知らない田舎から出てきたばかりの若いヤツに,専門も研究テーマもあるまいなんて思った。妄想が膨らんだせいで答えられないでいる私を尻目に,私の同期やら先輩やらはスラスラ,それはもうペラペラと,自分の2つ名のような難しい単語を並び立てていた。「俺は統合的動機づけのくさなぎだ!」みたいにいえればよかったんだろうか。
 「しまった。進路間違った」と思ったことが2010年4月15日の日記に書いてある。もう10年前の話であるからびっくりだ。

私は殺し屋を選んだわけで,別に敵討ちをしたいわけではなかった

 ところで,私は,研究というのを,ある程度の流派やスタイルはありつつも,普遍的に人間に認められている行為やその技能のことのように思っていた。そしてその技能は社会的そして経済的な価値を生むがゆえに,職業として成立するのだと思っていた。
 魔法と剣のファンタジー世界のくだらない喩え話を続けるのだったら,私はそうするとご飯が食えると思って,というかそれ以外飯が食えなさそうなので,暗殺者ギルドに入って最終的に暗殺者になろうとしたのであって,自分の村を滅ぼした盗賊の親分ボブに敵討ちをしたいわけではなかったのだ。
 なので私は,「研究テーマはなに?」と聞かれると「お前は誰を殺したい?誰を憎んでいるのだ?ん?ほらほら?」としつこく聞かれているような気分になっていた。「誰を殺すかは顧客次第では?」とも思った。
 しかしこの種の質問はあまりにもしつこいし,私はお察しの通り神経質な変わり者なので,すぐ「研究テーマはありません。院生なので専門性もまだありません」といつもいうようになった。私も頑ななので,この態度はいつも周りから窘められた。
 というのも,合わせて「そもそも研究したくはありません」とも答えるからである。大学院なら「やる気ないなら院生やめろ,モラトリアムが」といったレベルの発言であることは歳を取って知った。しかし,暗殺者ギルドの新米であった私は「私にも飯が食えるなら,できれば誰も殺さなくていい生活がいいな」という普通のニュアンスのつもりだった。
 しかし,この自分が飯が食えるならいいや,という態度も,特に文系の間では非常に不遜で歪んだ考えのようで,いつもお酒の席で怒られたものだ。「お前には知的好奇心がないのか?審美的に思う現象はないのか?なら,ここは向いていない!」

誰を殺すかが一番むずかしい

 いや,まあ演出が過ぎるけど,しかしこの変な文章で言いたいことは,誰を殺すかを決めることは,実際の殺しの手順よりも遥かに難しい問題だということなんだ。たとえば誰が悪人で,死に値するか,死を望む人はいるか,そして殺しの費用は殺しのリスクの割に合うか,そして暗殺の契約が成立するか,そういったことよりも,サプレッサーつきの銃弾の引き金を引くことは遥かに容易い。
 どのような研究テーマであれば社会的な貢献をするか,といっても小僧には社会的な貢献の道筋どころか,社会自体を知らないのである。学問的意義があるかといえば,そもそもその学問を修めてはいないのである。実行可能かといえば,どんなコストがかかるか,なにが不可能かもわからないのである。そんなことよりも,実験器具のボタンを押し,決められた動作をするプログラムのコードを書く方が簡単だ。
 仮に殺しという技術体系があるのだとしたなら,その技術体系の最高峰こそが誰を殺すかの判断だろう。同じように,研究という技術体系があるのだとしたなら,その頂点に研究テーマの設定がある

私はやめようとは思わなかった

 敵討ちを目的に敵を殺すなら,確かにその敵だけを殺すのに必要な技術だけを身につければ,あとはいらない。そして,その敵を殺したら,あとは殺しをしなくてもいい。
 でも,私は,自分の身につけた技術の使用をやめようとは思わなかった。自分がコレさえわかればいい,そのためだけの知識や技術がほしい,とは思わなかった。むしろ,この知識や技術で自分の人生を生きていこうと思った。まだまだ若手だけど,それなりにキャリアを重ねたので,そしてそのおかげだからこそ,やっと今の自分なら,どの悪党を殺したら世のためになるか,それが可能かといったことが全くわからないわけではない。
 今も,以下のようなお叱りを受ける。いわく「何にでも手を出す節操のないやつ」「人生をかける研究テーマがない人」「何を研究しているか一向にわからん」「研究が機械的で情熱がない」「いつも愛情を持たずに研究している」。確かに私には研究テーマがなかった。けしからん。確かに私の博士の学位記には「~学」とも書いていない。私は学を修めなかった。
 でも,私の学位記には「学術」と書いてある。幸い,学で生きていく術(すべ)がそこにあった。それを身につけられたとは言いにくいけど,仮にそうならとても幸せなことだと思う。

話を戻して

 誰でも殺していい,好きなひとを殺せばいい,そして任意の人を殺せればそれが以外学ばなくていい,そういうもんじゃないだろうと思う。私怨だったり通り魔だったり,快楽殺人とかそういうのがいいわけがない。わからないこそ,ある程度のガイドやリードが必要だとと思う。もちろん,主体性も大切だけれども,研究というのはその主体性こそが最も重要なのものだとはいいきれないと思う。そういう理解の前提が大事かな,などと思ったりもする。

全国英語教育学会紀要掲載論文が"effect"をタイトルに使う確率

この学会はほんとうに効果(effect)が好きだなあという印象

 わたしは全国英語教育学会という学会の会員でして,この学会は会員が2,000人弱(たぶん…)で,英語教育の中では比較的大きな学会になっている。この学会の紀要はAnnual Review of English Language Education in Japanというもので,長いのでARELEなどと略されていわれているよう。毎年20本台くらいの論文を掲載していて,今は30号くらい。国内の英語教育研究の動向を知るために,代表的な資料とされることも多いよう。
 わたしもちょっと最近あることが気になっていて,それは「英語教育の研究ってやたらと効果(effect)っていうことば使うじゃんね~」ということ。論文のタイトルは,The effect of ~,Effects of ~ ,Effective ~といったのがた~くさん♪
 大修館書店の『英語教育』という雑誌に,英語教育時評というコーナーがあって,縁あって寄稿させてもらっている。昨年あたり,「英語教育の学会は効果の話ばっかりで違和感を感じている」なんて書いたりしたのだけど,「学会にあまり参加しないくせにわかったようなことをいうな」といったお叱り(をやわらかくされた表現)をいただきました…。確かに印象でものをいうのは悪い。本当に学会では効果の話ばかりなのかを真剣に調べたことがなかったので,ちょっと調べようと思う。思ったらやってみる。

調べてもほらやっぱ効果ばっかじゃんね!

 ここの学会の紀要ARELEJ-Stageで公開されているので,ちょっとプログラムを書いて2010~2018年分の論文の英語タイトルを集めた。英語タイトルに,"Effect","Effects",および形容詞の"Effective"が使われている数を集計した。

使ってない 使った
2010 18 6
2011 21 5
2012 20 6
2013 12 9
2014 17 5
2015 20 8
2016 14 6
2017 19 6
2018 12 7

使う率の年ごとの推移は,こんな感じ。

f:id:kusanagik:20200221125517p:plain
Effectを使う率の推移(2010-2018)

この比率をベイズ推定すると,こんな事後分布になる。(実際には年を変量効果にしているが話を妨げるので省略)

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Effect使う率の事後分布の概観

事後期待値は,確率に換算すると.38HDIは[.26, .53]。下限をとっても4本に1本くらいはEffectをタイトルに使いそうだ
4本に1本の論文のタイトルに効果がつくレベルなのに,よく効果を語っているとはいっちゃだめなのかな。

青い目の人形の現存率

青い目の人形

 青い目の人形ってのは,1927年に日米友好のために,アメリカから日本に送られた人形のこと。当時の日米間は緊張状態にあった。日本人の移民がアメリカでの職を奪っている,という見方の下で,日系人排斥の機運が高まっていた。いわゆる黄禍論みたいな。それで,「こんな時代だけど,むしろこんな時代だからこそ仲良くすべきだ」っていうような話になった。

で,奥ゆかしいことに「仲良しのしるしなら人形だろ」ってことで,莫大な数のアメリカン・ドールを日本中に配ったわけ。それらの殆どは地方の小学校とか教育施設などに。

わーい。アメリカから青い目の人形が送られてきたぞ。


ja.wikipedia.org


 …この話,小さいときから個人的に何百回も聞かされたものだ。それだけでなく,当時送られたという実際のアメリカン・ドールを何度も何度もこの目で見たことがある。というのも,この青い目の人形,たまたま私が通学していた小学校に現存していた。私が対面したドールには名前があって,「ミミー」といった。ミミーちゃんの顔はこちらのサイトから確認できる。そうだ,ミミーだよ。ミミー。Long time no see!


www.cec.or.jp

現存率

 ちょうど今年で93年も経ったし,この青い目の人形の所在の多くはわからなくなってしまっているそう。そういや,この若くてピッチピチの私が見たのも25年くらい前の話だもんな。先週,東京のホテルで寂しく年越しをしていたら,酒の勢いかなにかの謎の作用で,なぜかこの青い目の人形の話を不意に思い出した。その後も夢に出てきてくれた。「不意に思い出す」ってのは予想も納得もいかないのがポイントだけど,あまりにも不意だよなあ。そういや,青い目の人形ってなんだったんだろう?ついに化けて出たのか?そもそもどれくらい現存しているんだろう?

ま,でも気になって調べてみたら,先述のWikipediaにとてもすばらしくまとめられていた。以下の表はWikipediaの転記(だから信憑性もWikipediaに準ずるだけでなく私の転記ミスの可能性もある)。

都道府県 寄贈数 現存数 現存率
北海道 643 26 .040
青森県 220 10 .045
岩手県 263 18 .068
宮城県 231 10 .043
秋田県 190 12 .063
山形県 205 12 .059
福島県 323 17 .053
茨城県 246 11 .045
栃木県 213 5 .023
群馬県 142 19 .134
埼玉県 178 12 .067
千葉県 214 11 .051
東京都 568 11 .019
神奈川県 166 12 .072
新潟県 418 12 .029
富山県 150 6 .040
石川県 205 3 .015
福井県 152 1 .007
山梨県 129 5 .039
長野県 286 28 .098
岐阜県 235 2 .009
静岡県 253 7 .028
愛知県 349 9 .026
三重県 194 9 .046
滋賀県 135 4 .030
京都府 262 8 .031
大阪府 429 4 .009
兵庫県 373 11 .029
奈良県 144 5 .035
和歌山県 177 1 .006
鳥取県 107 3 .028
島根県 182 2 .011
岡山県 238 3 .013
広島県 326 5 .015
山口県 200 5 .025
徳島県 152 1 .007
香川県 108 1 .009
愛媛県 214 6 .028
高知県 187 1 .005
福岡県 259 3 .012
佐賀県 98 1 .010
長崎県 214 2 .009
熊本県 241 2 .008
大分県 182 4 .022
宮崎県 131 1 .008
鹿児島県 209 0 .000
沖縄県 63 0 .000


とにかくデータが出たら見せてみろ,っていう世の中の圧力なので,都道府県別の現存率を地図で塗り分けるとこう。



f:id:kusanagik:20200105164520p:plain
都道府県別の現存率

全体としては,約3.16%ということね。このデータに二項分布を仮定してベイズ推定すると,確率pの事後分布はこんな感じ。

f:id:kusanagik:20200105165700p:plain
現存率の事後分布の感じ


そうか。そうだよな。3%くらいしか残されていないのね。

都道府県別の確率の分布

 全体としては3%くらいだけど,都道府県によってはばらつきはあるね。じゃ,これをベータ二項モデルで考える。ベータ二項モデルによると,現存は都道府県iに固有な確率ipによって出てきてて,このipが47都道府県毎にベータ分布に従っている,とまあそう考える。で,適当にStanしたらできたので,事後期待値から見ておそらくこんなベータ分布の感じ。

f:id:kusanagik:20200105170343p:plain
予測されたベータ分布の概観


実測値の現存率のヒストグラムにこれを描き足すと,こう。

f:id:kusanagik:20200105171454p:plain
現存率のヒストグラムとベータ分布

ま,多くて10%は残っているところもあるといった感じか。
90年も経てば,国際親善に来た青い目の人形も97%はその役目を終えるのね。

電子板書はCalmly Writerで

授業をする際に,電子的にその場で板書したりすることを個人的に電子板書と呼んでいる。emacsAtomといった適当なエディタを開いてやることも多いけど,何分学生にとっては見にくい。

最近Calmly Writerという無料のWebAppを知った。これ本当に素晴らしい。

https://www.calmlywriter.com/

 

好きなところは

  • Markdown言語をサポートしているところ
  • Markdownをリアルタイムで表示できるところ
  • UIが非常にシンプル
  • ダークモードにトグルできる
  • フルスクリーンモードにトグルできる
  • ファイルはGoogle Driveと連携できる
  • キーボードショートカットが多い

素晴らしい。電子板書で求める要件のすべてを満たしている

 

関係の数と三角数

2人いれば,2人の関係は1つ。3人いれば3つの関係。4人いれば6個の関係,5人いれば10の関係がある。
総当たり戦の数もいっしょ。2人いれば1試合,3人いれば3試合,4人いれば6試合,5人いれば10試合だ。
これを数列だと考えると,

 0, 0, 1, 3, 6, 10, 15 ....

という見たことあるような数列。今週奇しくも2回出会った。
これは,三角数に似ている。三角数は,

 0, 1, 3, 6, 10, 15, 21...

だから,三角数より一個ずれているみたい。三角数 T_nとすると, T_n = \frac {n(n+1)} {2}なので,この数列(を a_nとすると)は, a_n = \frac {n(n-1)}{2}ということ。もっとわかりやすくすると, T_n = a_{n+1}というかんじ。

入試問題などにも出るみたい。階差数列の単純な問題として。

関係の数,というとなんか曖昧なんだけど,グラフ理論を考えると視覚的にわかりやすい。無向グラフ G = (V, E)があって,Vの要素数nのとき,このグラフが完全グラフになるEの要素数がこの数列。

f:id:kusanagik:20190526110152p:plain

三角数との関係は,完全グラフの隣接行列を考えるとピンとくる。三角数の定義通り,辺の中にある点が同じ正方形になっていて,その和がエッジ数であることがわかるし,増えていく列の中にある1の数が n-1になってることから,階差数列であることもわかる。

 |A_2| = \left|
    \begin{array}{cc}
      0 & 1\\
      1 &  0\\
    \end{array}   \right|

 |A_3| = \left|
    \begin{array}{ccc}
      0 & 1 &1\\
      1 & 0 &1\\
      1 & 1 &0\\
    \end{array}   \right|

 |A_4| = \left|
    \begin{array}{ccc}
      0 & 1 &1&1\\
      1 & 0 &1&1\\
      1 & 1 &0&1\\
      1 & 1 &1&0\\
    \end{array}   \right|

 |A_5| = \left|
    \begin{array}{ccc}
      0 & 1 &1&1&1\\
      1 & 0 &1&1&1\\
      1 & 1 &0&1&1\\
      1 & 1 &1&0&1\\
      1 & 1 &1&1&0\\
    \end{array}   \right|


これ,組み合わせと同じ。要素がn個ある集合から,要素を2個選ぶ組み合わせは, _n C_2なので,やはり, _n C_2 =  \frac {n(n-1)}{2}。一般に,三角数の方がメジャーなので, {}_nC_2 = T_{n-1}とするよう。

ちなみに三角数の方は,それこそ無数に色んなところに出てくる。パスカルの三角形の3列目にも出てくる。

オンライン整数辞典という素晴らしいサイトがあって,この数列のページももちろんある。

0, 0,1,3,6,10,15, 21 - OEIS

Rで微分

RにはDという関数があってこれで関数と微分する変数を入れたら導関数を返してくれる。

#簡単な公式の確認
D(expression(x^2),"x")
#2 * x
D(expression(x^3),"x")
#3 * x^2
D(expression(log(x)),"x")
#1/x
D(expression(sin(x)),"x")
#cos(x)
D(expression(cos(x)),"x")
#-sin(x)