違う能力?
バッティングセンターにいくとして,100kmから160kmまですこしずつ球速を上げていくとする。100kmだと60%は打てるんだんけど,110kmになればけっこうきついわ,20%は切るな。160kmなんてほぼ無理だ。
――って考えるとする。
理想的にはこんな感じ。
でもこの関数については,本当はわからないから,100kmと150kmのところだけ観察するってことにしよう。
うむ。
さて。
このとき,俺には「100kmの球を打つ力」と「160kmの球を打つ力」の2つの能力があるのだろうか。
まあ(野球マニアがいうような細かいフォームを無視すれば)同じプロセスで,同じ動作を,同じような筋肉や技能を使って。
これで,「打力はふたつある」という考えかたをするのはいいのか。
実際の上のような関数がわからない世界だったら,力がふたつあってもいい。ふたつだったら,次は相関係数の値の問題になる。相関係数が0に近いほど情報量が多い(情報理論的な意味で)。もしそうなら,ふたつあると仮定しても悪くはない。そういう観測を得て,その上でなにかの意思決定をするのは有意義だろう。クリスプじゃなくてファジーに考えてもいい。ファジーな仕組みはたいてい役に立つ。
でも,本当に力がふたつあるとか,そういうのとは違う。
そして,そういう観測は情報量があるから,認識論的に自由に構成概念を形成してそれで世界はうまく回っているから,本当にそういう姿で存在しているんだ,そう信じる。なんていう理屈はもっと違う。100kmの球をうつ力はバント成功率と相関が高いとか,160kmならベンチプレスと相関あるとか,そういうのも違う。
じゃあ,そういう世界で生き続けてください,って話だ。
お釈迦さまは,「本当は存在しないことをあると思うこと」を無明といって,苦の原因だとした。「本当はない」と知って,それでも役に立つだろうと見る目は,「本当はある」と信じる目よりも明るいと思う。