草薙の研究ログ

英語の先生をやってます。

「私には研究テーマがなかった…」:研究テーマの決め方

研究テーマの決め方を巡る議論

 研究テーマをどのように決めるべきか,そして誰が決めるべきかといった規範的なはなしから,どのように決めているか,誰が決めているかといった記述的なはなしまで,とにかく研究テーマの決め方については議論が絶えない。もちろん,文系だとか理系だとかいうようなさして意味のない区分における差,たとえば「理系は指導教員が決める」かつ「文系は自分で探しだす」から始まり,究極的にはその研究室や指導教員の方針によるところが大きい。結局,指導教員との十分な相談による,というほかない。規範についていえば,すべての文脈を無視してこうあるべきだ,なんていうのはもちろんありえない。

決め方を巡って

 こういった論では大抵,3つの要因が話題に上がる。
 1つは,実行可能性。もちろん,研究室がもつ機材とか予算といった資源から始まり,指導教員の専門性,そして個人の資質能力も実行可能性に入る。
 2つ目は,意義。社会及び学問的にある程度の効用をもつことが期待されるわけだから,ひらたくいえば意義のない研究テーマは成立しない。
 最後は,合意性。結局のところ,本人が望んでいない研究テーマはモチベーションの問題などで研究が進まないし,指導教員との合意がない指導は難しい。
 これらを勘案すると,実行可能であり,意義があって,そして本人や指導教員が十分に合意できる研究テーマにするとよい,とまあ,そんな話になる。これら3つが大きく重複している。
 大事なのは,いずれも個人的な問題ではない,ということだ。どれだけ個人があることが好きでやりたがろうが,実行不可能だったり,意義がない研究は成り立たない。そういう研究は結局の所,合意性が得られない。そもそも(指導を受ける)研究全体が,個人的な問題ではない。そして,研究とは基本的に社会的行為だということを意識したいものだ。

冒険者の2つ名

 なんてまあ常識的な一般論を挟んでおいて,これからが私のとりとめのない話。
 私は私の領域で,ずっとこの研究テーマというものに悩まされ続けた。どこにいっても「研究テーマはなんですか?」とか「どんな研究をしているの?」というように聞かれる。私は研究テーマや,さらに自分の専門というのを答えるのがとても嫌だった。
 たとえば,研究というのには程遠い学部一年生のことを今も忘れない。高校の卒業式で,校長先生は私たち卒業生にこう言葉をかけた。「みなさんの人生はまだ何も決まっていない。無限の可能性がある!」
 おお,いいぞ。人間主義的で温かいじゃないか。
 しかし,その後大学に入ったら,入学式直後に大学の先生はこう声をかけた。「お前の専門は何だ?!それに若い体力を全部ぶつけろ!!」みたいな世界だった。「あれ,自分の人生はまだ何も決まっていないし,自分には何の専門もないんじゃ…」と鳩の豆鉄砲だった。
 大学院に入っても同じだった。魔法と剣のファンタジーものに出てくる冒険者が自己紹介するときの2つ名のように,専門分野だの研究テーマが常に会話につきまとった。
 「俺は風の魔法剣士くさなぎ!」とか「人は俺を赤き流星と呼ぶ…」みたいな世界に思えてちょっと滑稽だった。何も知らない田舎から出てきたばかりの若いヤツに,専門も研究テーマもあるまいなんて思った。妄想が膨らんだせいで答えられないでいる私を尻目に,私の同期やら先輩やらはスラスラ,それはもうペラペラと,自分の2つ名のような難しい単語を並び立てていた。「俺は統合的動機づけのくさなぎだ!」みたいにいえればよかったんだろうか。
 「しまった。進路間違った」と思ったことが2010年4月15日の日記に書いてある。もう10年前の話であるからびっくりだ。

私は殺し屋を選んだわけで,別に敵討ちをしたいわけではなかった

 ところで,私は,研究というのを,ある程度の流派やスタイルはありつつも,普遍的に人間に認められている行為やその技能のことのように思っていた。そしてその技能は社会的そして経済的な価値を生むがゆえに,職業として成立するのだと思っていた。
 魔法と剣のファンタジー世界のくだらない喩え話を続けるのだったら,私はそうするとご飯が食えると思って,というかそれ以外飯が食えなさそうなので,暗殺者ギルドに入って最終的に暗殺者になろうとしたのであって,自分の村を滅ぼした盗賊の親分ボブに敵討ちをしたいわけではなかったのだ。
 なので私は,「研究テーマはなに?」と聞かれると「お前は誰を殺したい?誰を憎んでいるのだ?ん?ほらほら?」としつこく聞かれているような気分になっていた。「誰を殺すかは顧客次第では?」とも思った。
 しかしこの種の質問はあまりにもしつこいし,私はお察しの通り神経質な変わり者なので,すぐ「研究テーマはありません。院生なので専門性もまだありません」といつもいうようになった。私も頑ななので,この態度はいつも周りから窘められた。
 というのも,合わせて「そもそも研究したくはありません」とも答えるからである。大学院なら「やる気ないなら院生やめろ,モラトリアムが」といったレベルの発言であることは歳を取って知った。しかし,暗殺者ギルドの新米であった私は「私にも飯が食えるなら,できれば誰も殺さなくていい生活がいいな」という普通のニュアンスのつもりだった。
 しかし,この自分が飯が食えるならいいや,という態度も,特に文系の間では非常に不遜で歪んだ考えのようで,いつもお酒の席で怒られたものだ。「お前には知的好奇心がないのか?審美的に思う現象はないのか?なら,ここは向いていない!」

誰を殺すかが一番むずかしい

 いや,まあ演出が過ぎるけど,しかしこの変な文章で言いたいことは,誰を殺すかを決めることは,実際の殺しの手順よりも遥かに難しい問題だということなんだ。たとえば誰が悪人で,死に値するか,死を望む人はいるか,そして殺しの費用は殺しのリスクの割に合うか,そして暗殺の契約が成立するか,そういったことよりも,サプレッサーつきの銃弾の引き金を引くことは遥かに容易い。
 どのような研究テーマであれば社会的な貢献をするか,といっても小僧には社会的な貢献の道筋どころか,社会自体を知らないのである。学問的意義があるかといえば,そもそもその学問を修めてはいないのである。実行可能かといえば,どんなコストがかかるか,なにが不可能かもわからないのである。そんなことよりも,実験器具のボタンを押し,決められた動作をするプログラムのコードを書く方が簡単だ。
 仮に殺しという技術体系があるのだとしたなら,その技術体系の最高峰こそが誰を殺すかの判断だろう。同じように,研究という技術体系があるのだとしたなら,その頂点に研究テーマの設定がある

私はやめようとは思わなかった

 敵討ちを目的に敵を殺すなら,確かにその敵だけを殺すのに必要な技術だけを身につければ,あとはいらない。そして,その敵を殺したら,あとは殺しをしなくてもいい。
 でも,私は,自分の身につけた技術の使用をやめようとは思わなかった。自分がコレさえわかればいい,そのためだけの知識や技術がほしい,とは思わなかった。むしろ,この知識や技術で自分の人生を生きていこうと思った。まだまだ若手だけど,それなりにキャリアを重ねたので,そしてそのおかげだからこそ,やっと今の自分なら,どの悪党を殺したら世のためになるか,それが可能かといったことが全くわからないわけではない。
 今も,以下のようなお叱りを受ける。いわく「何にでも手を出す節操のないやつ」「人生をかける研究テーマがない人」「何を研究しているか一向にわからん」「研究が機械的で情熱がない」「いつも愛情を持たずに研究している」。確かに私には研究テーマがなかった。けしからん。確かに私の博士の学位記には「~学」とも書いていない。私は学を修めなかった。
 でも,私の学位記には「学術」と書いてある。幸い,学で生きていく術(すべ)がそこにあった。それを身につけられたとは言いにくいけど,仮にそうならとても幸せなことだと思う。

話を戻して

 誰でも殺していい,好きなひとを殺せばいい,そして任意の人を殺せればそれが以外学ばなくていい,そういうもんじゃないだろうと思う。私怨だったり通り魔だったり,快楽殺人とかそういうのがいいわけがない。わからないこそ,ある程度のガイドやリードが必要だとと思う。もちろん,主体性も大切だけれども,研究というのはその主体性こそが最も重要なのものだとはいいきれないと思う。そういう理解の前提が大事かな,などと思ったりもする。