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草薙の研究ログ

英語教育関係。でも最近は統計(特にR)ネタが中心。

なぜ第二言語習得研究がさっぱりわからないか

教育 雑感

第二言語習得研究(一応はそういう名前の授業の単位は大学院で取ってあるレベル)が一般的な教育従事者にとってさほど魅力的でないということはさまざまな先生がいっておられる。そして2015年の今日では,それはさほど真新しい見方でもない。でも,「なぜ」魅力的でないか,ということに突っ込んで考えることはあまりされてこなかったのだと思う。

実学/応用研究 vs. 科学/基礎研究→結局は配分問題

これまで,教育従事者による「SLAは魅力的でない」論にも,そしてSLA研究者によるその反論にも共通していることは,「目的論の違いである」という認識だった。教育従事者は教育の生産性の向上とか,そういうマクロな視点でないにしても,いわゆる業務内容の質的向上学術ないしそれに類する知的活動の目的論として添えてきた。一方,SLA基礎科学指向なので,教育上の意思決定なり,教育業務の質的向上は主目的とはしない。頭の中の働きを明らかにするであるとか,いわば人間と社会自体に対する認識を深めようとする。これが「SLAが魅力的でない論」の大筋の終着点であり,フィルターでもあった。…そこからは話が一向に進まないという。

有り体にいえば,教育従事者はある意味,工学者(engineer)にも似ている。工学者は,科学者(scientist)とは違う。ここでカルマンによる私のお気に入りの一句を紹介したい。

 

科学者はあるがままの世界を研究し、技術者は見たこともない世界を創造する。

 

一般的な社会通念では,工学は社会生活に直結し,工学研究に対するあらゆる投資は中・短期的なレベルでリターンが得られる。一方科学に対する投資は,短期的にはリターンが得られない。「明日の授業への示唆はなんですか?」というやつだ。科学は明日の役には立たない。でも50年後や100年後に根本的に役立つかもしれない

しかし,もしも今,50年後や100年後を見据えたといった長期的な投資をしないと,将来の短期的なリターンも約束されないのである。

なので,これはもはや投資配分の最適化みたいなものだ。いい変えてみると,結局は「長期的な投資が可能な資源が今あるか」とか「そんな余裕はねえ!」とか,ぶっちゃければ,そういう人材やお金の配分や配置に関する認識の差だ。まさに科研費の配分とか,教員の充当とか。

もう少し簡略化すると「そんな基礎研究を悠長にやっている暇はねえんだ!もっと今を生きろ!」vs.「今だけみてたら,将来もなにもねえだろう!メイの馬鹿!もう知らない!」というまんまな構図。

これがこれまでの理論と実践の乖離というものの大枠だろう。これに「実験室でやったものは現場では再現できない」「ことばばっかり難しくてさっぱりわからない」というような種々の怨嗟じみたもので飾られる。怨嗟というと感じが悪いけど,今を生きる(と思っている)人にとって,先の見えないことに対する投資よりも今が大事なのは当然だと思う。もちろん,私自身も科学者でないし,長期的な学術的投資を生業とするわけではないので,第二言語習得研究にはまったく魅力を感じない。でも,いい感じに勉強しないと時代から置いていかれるのが怖いとは多少思うけども。

結局は,短期投資組と長期投資組でうまい住み分けができればいいとも思う。そこのちょうど隙間がお互い嫌いな領域になるから。基礎科学気取りが,ありとあらゆる実務的事情を無視して教育的な意思決定に割り込んでくるとか,逆に基礎研究に「明日の授業に役立たない」「さっぱり用語がわからないから糞」みたいな筋の通らない批判をするとか。そういうのは,確かに一種のヘイトスピーチに近い問題だと思う。ただ,第二言語習得研究者がもちいる抽象的(だが形式的ではない)論理は,私程度の知性ではわからないくらい高度だというのは事実。

でも,時代が下れば,若い奴らはそんな確執にはこだわらないので,やがてなんでも,結局はいい塩梅になるという楽観的な見方もできなくはない。喧嘩してる前世代のひとたちは段々口数が少なくなっていき,穏やかになっていき,そしていずれセンセイオツカレサマデシタするのだし。

情報整理のコンパティビリティ?

社会背景などそういったものは,上記のようなことなのだけど,実務的な意味でそれが情報の整理の仕方に端的に現れる。最も端的に現れるのは,教育的処遇の効果検証。こういう具体的なことが「魅力的でない」の原因となっている。

第二言語習得は,「ある処遇」(タスクプランニング・繰り返しとか)が効果をもつ変数を枚挙する。「発話の正確さがあがった」「発話の複雑さ」「発話の流暢さも」「語彙も増えた」「文法項目を覚えた」「自信ついた」「創造性(creativity)があがった」…

面白いのは,処遇をクエリとした整理をしていること処遇ベース型。まず,処遇が先に与えられている。「処遇Aは,a, b, c, d, e変数に効果を持つ」という形式。これに効果が見られる変数を随時足していく。第二言語習得研究の本や論文でもこのように整理されて書いてある。まあ,頭の中の仕組みを明らかにするのならこういう整理なのだろう。

でも,普通,教育業務の意思決定に必要な情報の整理の仕方は,まんま逆だ「a変数に効果を持つのは,処遇A, B, C」というような整理のはずだ。

医療とかはそうなっている。まずは,診断がある。血糖値が異常に高い。対処療法なのだろうけど,血糖値を下げるにはインシュリンの投与が必要。といった感じ。「血糖値の低下に効果をもつのは,インシュリンというようなことだ。いわゆるEBMのエビデンスというのもこの形式で整理されている。

まあ,前回の記事でも書いたのだけど,これは変数の価値が明確な世界だからの話で,教育にどこまであてはめられるかは,まだわからない。

でも,教育従事者にとって,まず,あるのは診断にあたるような生徒観,題材観,指導観だ。「血糖値が高い」みたいなものだ。そこで指導計画をする。具体的に指導の手だてを考える。評価基準と規準を作る。処遇aに個人的な興味があるから,それが見られるような評価基準を作って授業をするわけでもない。

情報の整理形式をうまく互換させられないか?

このような,情報の整理の仕方をうまい具合に互換させられないだろうか

処遇ベースの整理から,変数ベースの整理へ。情報は既にあるんだから,うまくできないかな。誰か偉い先生がいい本を書いてくれないだろうか。そこには,「~を伸ばしたい」といった見出しがあり,効果がありそうな処遇がサジェストされているみたいな。でも,それはきっと今ならSLA側のひとの(並大抵ではできない)仕事なのだなとも思う。

もし,そういう本があったなら,もっともっと,教育業務を重視するひとにも魅力的に見えるだろうし,基礎研究が応用化される日も早く来るのではないかな。

SLA研究には莫大なデータの積み重ねがあるのでしょう?それが別のOSでは起動できないソフトみたいなものだというだけだ。コンパティビリティがあればいいかもだ

でも,それがあってはじめて,教育従事者にとって教育心理学,教育工学,言語テストといったいわゆる関連諸分野と同じ土台に立つという話なのだけど。